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熊本YWCA新聞2013年4月号

 2013-04-12
50周年目の熊本YWCA
                             2013年度会長 江崎啓子
 1964年度11月8日誕生した熊本YWCAは今年50周年を迎えます。
今年は俵会長に代わって江崎啓子が会長を引き受けることになりました。少しさび付き始めた頭と体を使って、会員の皆様と一緒に熊本YWCAの活動を続けていきたいと願っています。
熊本YWCAの成り立ちを少し皆様と共有したいと思います。
創立に至る経緯から記しますと、まず初代会長江藤ゆきさんの話になります。江藤(桑原由紀子)さんは東洋英和女学生時代にYWCAのお仕事部に入会したことがきっかけでYWCAとの関わりが始まりました。東京女子大学生YWCAに属しておられ、1939年7月にアムステルダムで行われた世界基督教青年大会にYWCA参加者11名の一人として出席されました。第Ⅱ次世界大戦開始前の最後の世界会議となりました。帰国途中の船上で戦争開始を知ったそうです。桑原由紀子さんはしばらく日本YWCAの事務所で学Y幹事として働いておられました。 1941年九州女学院にお勤めの江藤安純氏と結婚され熊本の住人となられました。
 1963年5月日本YWCA会長光明照子氏、総幹事今伊万里氏より九州女学院YWCA顧問の川桐トキ子先生に熊本に市YWCAを作るための協力呼びかけがあり、鶴野紫先生と共に発起人会開催準備会が始まりました。準備委員として、伊藤芳枝、伊藤拡子、江藤ゆき、江副雅子、川桐トキ子、竹田幸子、平井房子、福田シズ、福留ハナ、丸井和子、丸井啓子、本村篤子、安浪ナナ子、吉崎モトエの14名が集まり月に一回の準備会を経て創立に至りました。(この内天国に行かれた方々も居られ、現在では4名が在籍しています。)
その初代会長には江藤ゆき氏が選ばれました。子育てに大変な時期でしたが、引き受けてくださり、47名の参加者を得て発会式を迎えることが出来ました。しかし会員の数は17名でありその他はお祝いに駆けつけてくださった県・市の教育関係、教会、矯風会、学校(中・高・大学)等からの出席者であり、社会的なつながりの中での誕生だったわけです。
発会当時江藤さんは「わたしたちの力にふさわしい責任が与えられるようにではなく、わたしたちの責任にふさわしい力が与えられるように、とひたすら祈りつつ、つかわされた使命を果たしていきたい」と機関紙に記されています。
会員も少なく準加盟として誕生しましたが、同じ1964年に誕生した長崎YWCAと共にやがて日本YWCAのメンバーになり、日本中にある市YWCA、また世界中に拡がっているYWCAともつながり、女性・子どもの人権、安全、平和などさまざまな活動にかかわり、今に至っているわけです。
50周年を迎える今年は記念企画を計画しています。皆様にはニュースの中でお知らせしていく予定ですので、どうぞご協力よろしくお願いいたします。


世界YWCAデ―   
4月24日11時~1時 オープンサンド他軽いランチを取りながら、
“国連女性の地位委員会”への参加報告を石原明子さんから伺います。 YWCAリサイクルセンターにて。


3月 聖書の学び「十戒の第五戒」   
―あなたの父母を敬え―
 聖研への出席は久しぶりで、私が宮崎先生のご指導を受けるのは初めてです。テーマは「十戒」、今回はその「第五戒」。一~四戒が神との関係性における戒め、六~十戒は隣人に対して守るべき戒めだそうで、五戒というのはその両者をつなぐものとして位置づけられるとのことでした。
 実は、この「父母を敬え」というタイトルを見たとき、エッと引いてしまいました。しかし、お話を聞いているうちに「敬う」というのは「重きを置く」こと、すなわち「軽々しく扱わない」ことと解釈でき、私は「個人の人格を大切にする」まで拡大して考えました。また、「父母」というのを「人々」へと普遍化して捉えていくと、しっくりします。
宮崎先生は、30年前働いていたカナダの老人介護施設での見聞を語られました。話は現在の高齢者問題に及び、出席者からさまざまな意見や質問が出ました。また、江崎さんから「儒教では、『老いては子に従え』と言うけれど」という指摘もあり、他の宗教と比較してみることも宗教の学びの第一歩かと思いました。
私は生前の父と悉く意見が合わずいつも口論していました。家族間では「敬う」を堂々実践することに照れがありますが、日頃から素直に語り合うことや信頼の証を見せて安堵させることも必要なのかもしれません。この日頂いた資料に、親子の関係は「あくまで人格的関係の中で互いに慈しみ合う関係の中で出てくる敬いであり」、「互いが互いを物扱いしてはいけない」(高内義宣)とありました。現在いじめ問題が顕在化し深刻な社会問題となっています。このことについて、もっと聞きたかったのですが時間がなく残念でした。          (柳田惠里子 記)


復興庁との福岡ワークショップに参加して

                                 宮下 愛
昨年6月成立した原発事故子ども・被災者支援法は、チェルノブイリ法にのっとり避難する権利、とどまる権利、被曝を避ける権利が認められた理念法ですが、それから8ケ月たっても基本方針は未だ作成されず予算もついていない状況でした。そんな中3月13日福岡市で、復興庁の政策担当官を囲んで対話ワークショップが開かれ、私は熊本県へ避難した者として会に参加しました。復興庁は震災以降東北を中心に被災者の声を聞く会をもってはいましたが、九州に出向いたのは初めてでした。
ワークショップは担当官に支援法の意見書をつきつけ回答を迫るようなスタイルではなく、自由な対話の中で語られる支援のアイディアを担当官にも一緒に聞いてもらい、新たな協同の方法を模索するというものでした。
会場には震災や原発事故の影響で福島や関東から九州に避難した母親12人が集められ、3時間半にわたりゆるやかに話題にあがった「情報支援センターの設置」、「企業の福利厚生カフェテリアプランを応用した支援」について活発な意見交換をしました。ファシリテーターが随時ホワイトボードに話題を書き出していく方法が、私には非常に新鮮でした。
その後政府から15日に「支援施策パッケージ」が発表されましたが、内容は全く不十分だったのは残念です。しかし熊本では平野みどり県議の会派から提出された支援法の意見書が県議会で可決されたばかりです(21日)。今後熊本ならではの支援の実例が生まれることを期待します。


福島県立相馬高校放送局 上映・交流会  
   松岡正勝 (劇団ポプラ制作部)
今、この文章を目にしている人は、紛れもなく生きている。それは、事実だ。私が、今回の福島県立相馬高校放送局上映・交流会に参加して考えたのは、“生きること”と“生活すること”についてだった。
私の記憶が確かならば、1995年の阪神淡路大震災を境に、日本には“ボランティア”という言葉が氾濫した。当時、高校1年生で、それまでよりも、世間のニュースに耳を傾けることができるようになったからかもしれないが、ボランティアという意識が多くの日本人の中に定着したのは、その頃からではないかと、私は思っている。
その2年後、大学受験をしていた私は、とある大学の二次試験面接で、「ボランティアについてどう思いますか?」といった質問を受けた。私はその場で、「自己犠牲を払ってまでするボランティアが、本当に喜ばれることなのか、疑問を感じます。」といった返答をした。おそらく、これは模範解答から大きく外れたものであったと思う。しかし、その時の私にとっての正直な想いであった。
多くの人は、他人が“生きる”ために助けを求めることに対しては、すぐさま応えようとする。それが、ボランティアの一つだと思うし、大切なことだ。しかしながら、他人が“生活する”ために求めることに対して、己の生活を削ってまで支援する人、できる人は限られているのではないかと思う。
私は、今あるボランティアの意識を否定したいわけではない。
今回の上映・交流会で伝わってきた高校生たちの想い。“今の生活”を支えてもらうためではなく、彼女たちが、そして私たちが、数年後、数十年後の未来で“生きる”ために、今の生活に必要なこととは…。今生きている私たちへの重大な問いかけであった。
(松岡郁子会員の息子さんです。丁度、東京から熊本に帰省中で、上映会に参加されましたのでお願いしました。)



ワルシャワ 今・昔      小脇智恵
 この2月末、チェコとポーランドへ行く機会に恵まれました。一番の楽しみは、3泊でしたが、10年ぶり3度目のワルシャワ訪問です。
私たち家族は22年前の1990年秋から1年間、ワルシャワに住んでいました。ベルリンの壁が壊れて1年後、ポーランドも前年すでに市場経済に移行していましたが、ちょうど東欧の改革がものすごい勢いで進んでいたころです。その頃の街は建物の色も空気もまだまだ灰色の暗いイメージでした。物は少しずつ増え始めていたのですが、偏りがあり、必要なものは見つけた時に買い溜めをしておかなければすぐになくなる、といった具合でしたし、相変わらずの行列はどこにでもありました。日本食はベルリンの斉藤商店に注文、トラックで月に一回届けてもらうことでしか入手できなかったし、とんでもなく高額でしたので、ポーランド人を招待する時にしか利用できませんでした。市内の至る所で地下鉄工事があり、普段の通行をかなり妨害していました。当時の地下鉄工事は、20年以上前から始めていたにもかかわらず、開通している箇所はどこにもない、いつ開通するのかもわからない、といった状態でした。
それが、どうでしょう!自由化すると数年後には地下鉄は一挙に開通し、今ではどんどんその路線を広げ、駅の無人化も徹底していました。あまりにも近代的で自販機の使い方がわからずオロオロしていると、現地の方が何人も、最後まで丁寧に教えて下さいました。日本と同じように何でも揃う近代的ショッピングセンターが当たり前のようにあり、旧市街から大学の通りはこぎれいな店が並ぶ明るいおしゃれな学生街でした。22年前にやっと1軒日本料理屋がワルシャワに誕生してニュースになっていたのですが、今では市内にな
んと寿司バーが100軒以上あるということでビックリです!(ポーランド人は寿司が大好き!もちろん生魚のにぎりと細巻です)。WARSAWとしか見えず安心して疑わなかったポーランドみやげはよく見ると“WASABI”とちゃんと書いてあったわさびコーティングの豆菓子でした!?

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